サラリーマンから経営者へ。50歳になった自分の 生きがいについての結論。
- Kenji Matsuki
- 2 日前
- 読了時間: 7分
こんにちは。
うっかり生きがい研究員の松木です。
はじめましての記事『サラリーマンから経営者へ。生き甲斐がない私の『生き甲斐』についての沈潜。』はこちらから
昨年以来、様々な方々と生きがいについて考えて参りました。
今回は、50歳になった現時点での私なりの「生きがいの結論」を、 ひとまず言葉にしてみたいと思います。
なお、毎回くり返しお伝えしておりますが
私はこれまで生きがいについて真剣に考える機会があまりなく、
・モテてないくせに相手に条件をつける
くらいの自己評価・勘違い野郎発言という程度にお考えいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
目次|
・自分にとっての生きがいとは
結論|生きがいは、営みの中にある。

結論から言うと、私にとって生きがいとは、「何かが満たされた状態」そのものではなく、ありたい自分に向かって努力し、行動し続ける「その営みの中にある」ものだと思っています。
だから、
「朝起きてヨガしてサーフィンしてコーヒー飲んでベーグル食べて
犬と海辺を散歩する、っていうルーティンが生き甲斐なんだよね。」
というような“状態”そのものは、少なくとも今の私にとっては、 生きがいそのものではありません。
もちろん、そういう暮らしに憧れがないわけではありません。
でも私にとって大事なのは、
その状態そのものよりも、どんな目標を持ち、 何を役割とし、どう行動しているのかです。
そこにこそ、生きがいは宿るのではないか。
現時点では、そんなふうに考えています。
生きることに意味はあるのか

生きがいを「生きるに値する甲斐」あるいは「生きる理由」と読み替えるなら、 「そもそも生きることに意味はあるのか」という問いを避けては通れないように思います。
私は、歴史や宇宙のような大きな尺度から見れば、ひとりの人間の一生に普遍的な意味があるとは思えません。
たとえば、地球が生まれてから数十億年という時間が過ぎていると言われています。
その長さを分母にして、人の一生を百年として分子に置いたとき、その存在がどれほどの大きさを持つのか。
たとえ人類にとって偉大な発明をしたとしても、陸の半分を支配するような巨大な権力を持ったとしても、途方もない時間を分母にした時に、その存在はあまりにも小さい。
分母は「人類が活動してきた時間」でもいいし、「人類がこれから種として続いていく時間」でもいいです。
いずれにしても、大きな流れの中で見れば、ひとりの人間が生きて死ぬことに、普遍的な意味があるとは、私には思えないのです。
生きることに意味はないのか

ただ一方で、普遍的な意味がないからといって、私にとって私の命に意味がないかというと、そうではありません。
私にとって、私の命は1/1です。
つまり、私にとっては100%です。
私の人生に代わりはなく、私にとっては、私が生きて死ぬこと以上に大切なことはありません。
だからこそ、「人生そのものに普遍的な意味があるか」という問いとは別に、自分の命にどんな意味を与えるのかという問いが生まれ、そして、その問いに向き合うことが、自分の命に対する自分の責任ではないかと感じています。
それは言い換えると、
命についての普遍的な価値なんてなくてもいい。
ただ、自分の命を使い切るに値する「かくありたい生き方」を実現したい。
と、いうことだと思います。
それが、少なくとも今の私にとっての「生きる意味」であり、そこから「生きがい」というものも立ち上がってくるのだと思っています。
かくありたい生き方とは何か

では、私にとって「かくありたい生き方」とは何か。
これを見つけることに、私はずいぶん苦労してきました。
個人として・父としてのある程度の責任を果たしながら、
自分を信じられるだけの一定の成果と収穫は獲得しつつ、
それを前提とした上で、それ以上に大切にしたいものがある。
気の合う仲間と、わいわい楽しく過ごすこと。
自分の子どもたちをはじめ、若い方々が自分の人生を切り拓こうとして苦労している姿を、少し離れたところからニヤニヤ見守ること。
そして何より、目の前に困っている人がいたら、迷わず手を差し伸べられること。
そんな人として当たり前の優しさと、窮屈でない自由を持って生きたい。
それが、今の私にとっての「かくありたい姿」です。
そう考えたとき、私が求めていたものは、 want to become something(何かになりたい)というよりも、 want to be(こうありたい)なのだろうと思い至りました。
自分にとっての生きがいとは。

これまでを振り返ると、
学生時代の私は、ちゃんとした会社に勤めて、
ちゃんとした家庭を持つことを目標にしていました。
ちゃんとした会社に勤めて、家庭にも恵まれた私は、
次に仕事でちゃんと自立することを目標にしました。
そして、仕事である程度自立した今の私は、
人のためになることをして生きる人になりたいと考えるようになりました。
こうして振り返ると、できることが増え、見える景色が変わればそれにつれて 「ありたい姿」もどんどん変わっていくのだと思います。
もしそうだとすれば、生きがいというのは、どこかに固定された完成形ではなく、
その時々の自分にとっての「ありたい姿」を見つけ、
それを追いかけ続けることなのかもしれません。
言い換えれば、満ち足りた安全地帯をエンジョイしている状態よりも、
まだ届いていない何かに向かって、自分なりに手を伸ばしている状態。
その営みこそが、私にとっての生きがいなのではないか。
今は、そう思うのです。
満たされないからこその生きがいではないか

突然ですが、今、私は「意味のある苦労がしたい」と思っています。
自分ひとりが食べていけるくらいの稼ぎ方は、なんとなくわかった。
でも、一人で食べていくだけのために働き、生きていくのにはドキドキしない。
加えて、会社の規模を大きくするためだけに、やらなくてもいいことをやったり、売らなくてもいいものを売ったりするようなこともしたくない。
自分が何かを達成するよりも、目の前の困っている人を助けることをしたい。
世界を派手に変えるというよりも、困っている人を一人でも減らすことをしたい。
コスパやタイパでは測りきれない、不器用な人間にしかできないことをしたい。
そういう、意味のある苦労がしたいのです。
それを事業として考えたとき、大変なポジショントークになってお恥ずかしいのですが、
今、自社で行なっている
「続けたい人がいれば続けられるはずの事業が、継ぐ人がいないという理由で廃業せざるを得ない状況を減らすこと」と、
「役割さえあれば輝ける人に、その舞台を用意すること」
という新しい組み合わせで事業と人の可能性を最大化する事業承継も、 自分の生きがいにつながっているのではないか、と感じるのです。
これを誰かに褒められたいわけでも、認められたいわけでもありません。
自分の生きがいは、自分だけのものです。
1/1、100%、自分の内側にしかないものです。
だから、私は他人の生きがいについても、軽々しく口を出したいとは思いません。
その人の生きる意味は、その人の内側にしかないものだと思うからです。
最後に:感謝

以上が、現時点における私の生きがいです。
ずいぶん拙いところもある文章だったと思いますが、 最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
今回の投稿をもって、生きがいブログライターからはいったん一時下車いたします。
これまでの投稿をお読みいただけたあなたに、いつかどこかでお会いできることを楽しみにしています。
では、ひとまず、さようなら。
一人ひとりの、その人だけの生きがいに、乾杯。
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