はじめまして。
IKIGAI Media Lab のふなと愛ちゃんのアガペに当てられ、
うっかりIKIGAI研究員に入会した松木と申します。
簡単に自己紹介いたします。
1976年、大阪生まれ、現在48歳。
妻と4人の子どもと共に横浜市内に住んでおります。
仕事は2002年〜2022年まで東急電鉄に勤務、
2020年に副業で会社を創業し、2022年に独立。
2024年にはM&Aで会社を取得し、現在は2社の代表をしています。
なお、愛ちゃんとは2023年に友人と創業した会社の事業でご縁をいただき、
それ以降、いちファンとして遠距離から見守っております。
これから生き甲斐について、頑張って書こうと思うのですが、
私は生き甲斐について、人生で一度も真剣に考えたことがなく、
・運転免許を持ってないのにベンツに乗ってる人のセンスを批判する
・下戸なのに高いワインをバカにする
くらいの戯言(たわごと)とお考えいただければ幸いです。
目次▼
生きがいに対する違和感と理解について

私は生き甲斐という概念が、生きる幸せを感じるためにあるのであれば、
それを考えない方が幸せを感じられるんじゃないか、と感じています。
加えて、生き甲斐を議論する場面で、
発言者の自己承認欲の暴走の気配を感じることがあり、
生き甲斐を議論することに、少し恐れがあります。
ただ、生き甲斐そのものを否定するつもりはなく、
自分にとっての生き甲斐をつかむことができたら、
それはそれで幸せなんだろうなぁと思ったりもします。
自分の生きがいとは

私には生き甲斐はありません。
でも、今が我が人生において最も幸せです。
何が幸せかというと、おおよそ以下だと感じます。
・自分と家族が健康である
・好きな仕事で生きていける
・適度な自由と娯楽がある
家族と子育ては生き甲斐か

4人の子どもたちと妻は、私にとって何よりも大切な存在です。
子どもたちが社会に役立つ形で自立し、
納得いく人生を送ってもらえるようにいざなうことが
親としての役割であり、喜びだと感じていますし、
彼ら・彼女たちの命が続くためであれば、
自分の命を差し出すことだってできると思います。
ただ、
「子育てがあなたの生き甲斐ですか?」
と聞かれると、それはそれで違う気がします。
子どもたちとはいずれ別れるもの。
じゃあ、そのあとはどうなるの?
というか、今この瞬間においても、
子どもたちさえ良ければ自分が全て満たされるのかというと、ちょっと違います。
もう少し、個としての自分を感じていたい、という感覚かもしれません。
仕事は生きがいか

では、
「仕事があなたの生き甲斐ですか?」
と聞かれても、それもYESであり、NOである感覚です。
私は独立事業者であり、会社経営者です。
どんな価値を顧客に提供し、どうやって稼ぎ、
どう配分し、どう納税するのかは、すべて自分の裁量です。
この自由はサラリーマン時代には得られなかったものですし、
こうやって世の中や目の前のお客様や社員に貢献できていることを
感じられるのは無上の喜びです。
ですが、仕事面が満たされることが
生きる甲斐がある人生なのかというと違います。
幸せのために仕事をしてるんであって、
仕事は幸せのための手段でしょ、というのが正直なところです。
では、自由と娯楽は生きがいか

これは絶対に違います。
自由と娯楽は生き甲斐の前提であり、生き甲斐そのものではないと思います。
会社経営に例えると、
売上と利益は会社経営の前提であり目的ではありません。
経営の目的は顧客と社会への貢献です。
つまり、自由と娯楽がある前提で、
その自由を何に使うのか、何を娯楽として楽しむのか、
という選択が生き甲斐につながるのではないかと感じます。
追加の問い:生きがいは「稼ぎ」がないといけないのか

僭越ながら、生き甲斐を考えるときに、
あるいは、生き甲斐について耳にしたときに、
「それって続けられるの?稼げるの?」
という問いを自分の中に立ててしまいます。
例えば
「朝起きてヨガしてサーフィンしてコーヒー飲んでベーグル食べて
犬と海辺を散歩する、っていうルーティンが生き甲斐なんだよね。」
という方がいらっしゃった時、私は
「いいね。で、それってどうやって続けるの?」
と思うわけです。
生き甲斐で稼ぐべきだというわけではありません。
生き甲斐で稼げなくては生き甲斐じゃない、ということでもありません。
ただ、生き甲斐をどうやって続けることができるのか、
について答えがなければ、その生き甲斐は未完成なんじゃないかと思うんです。
もちろん、生き甲斐は未完成でもいいと思います。
それを未完成だと自覚していれば。
反例:母の生きがい

とはいえ、稼ぎがない生き甲斐があるのも事実だと思います。
恥を忍んで自分の家族を例に出しますと、
実母は実家の大阪に暮らしており、すでに後期高齢者になっています。
もちろん彼女自身による稼ぎは無く、年金と子供達からの仕送りで生きています。
その彼女の生き甲斐は入院している実父の看病と、英会話です。あと孫の成長。
英会話を習ったからといって使うわけでも旅行するわけでもありません。
ただ、習いたい・面白いからやる、だそうです。
孫の成長に主体的に関わることもできません。
せいぜい、遠くからお小遣いを送ることくらいです。
彼女の生き甲斐について、
稼ぎがないからといって否定する気持ちにはなれません。
また、いつまで続くか分からないその生き甲斐が、
できる限り続けばいいのにな、と願う自分がいることも確かです。
自分の中の「続かない生き甲斐」に対する違和感と、
母の生き甲斐に対する理解の矛盾については、
自分の中では答えが出ていません。
最後に:IKIGAI理解についての現在地

以上の妄想を経て、今は、
生き甲斐とは一つの形にとどまるものではなく、
その時々の心理や局面によって変わるものではないかと着地しています。
また、生き甲斐は一本の柱ではなく、
いくつかのプチ生き甲斐が支え合って、
生き甲斐を構造として構成しているのではないかとも思います。
私の場合は、それが、家族・仕事・自由、なんでしょう。多分。
つまり、生き甲斐を探し、それを実践することが生き甲斐ではなく、
幸せに生きるために必要な構成を構造として支えるようにデザインすることが、
結果として生き甲斐につながるんじゃないか、
というのが、生き甲斐の初心者の現在地のようです。
なんとなく、生き甲斐を考えるドアの前に立てたような気がします。
このドアを開けて無限の塔の中に入っていくかどうかは、
これから落ち着いて考えます。
以上、最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
追伸)
次回の機会をいただけるのであれば、
サラリーマン時代に仕事に生き甲斐を感じられなかったエピソードと、
独立・自立して命からがら生き甲斐を感じられるようになったことを文字化し、
自分の生き甲斐に対する理解を客観的に眺める機会にさせていただこうかと思います。
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