心の穴が教えてくれた、当たり前の生きがいについて
- Kenji Matsuki
- 3月26日
- 読了時間: 6分
更新日:3月27日
2025年2月25日。
父が私と弟の目の前で息を引き取りました。
享年77歳。
20歳で生まれ故郷の大阪を離れて以来、
父と長く一緒に過ごすことはありませんでしたが、
最愛の存在を亡くし、
私は生まれて初めて「心にぽっかりと穴があく」という体験をしました。
今回の記事ではそのことを振り返り、文字にしておきたいと思います。
|目次|
心に穴があく前

本を読んだり、人から聞いた話の中に出てくる『心の穴』について、
私はジグソーパズルの一角が埋まっていないような状態なんだろう、
と想像していました。
通常、心は、家族・友達・自分のこと・仕事のこと・将来のことなど
いろんなことが詰まっていて、
隙間なくひしめき合いながら絶妙にバランスが取れているんだけど、
失恋やリストラなど、自分の意に反することで一角に穴があき、
そのことによってパズル全体の絵が絵として成り立たなくなったり、
心の(パズルの絵の)バランスが崩れたりする。
そんなイメージでした。
でも、実際に体験してみると、全く違いました。
心の穴を感じて

父がこの世を去った翌朝から、
自分の心にぽっかりと穴が空いていることを、明確に感じました。
繰り返しになりますが、
父とは長く一緒に住んでいなかったし、
最後は何年も施設に預かってもらっていたので、
自分の生活には何の影響もありませんでした。
ただ、そこにあるはずの存在がなくなったことで、
言い表しがたい寂しさに襲われ、何をやっても手につかず、
「なるほど、これが“心に穴があく”ってことなのか。。」
と、妙に納得したものでした。
そのときの心の穴のイメージは、ピースが欠けたパズルというより、
心のタンクに穴があいて、中身がダバダバ流れ出していくような感覚でした。
つまり、家族のこと・仕事のこと・自分のこと・将来のことが心から流れ出し、
「そんなのどうでもいいじゃん、だって俺だってそのうち死ぬし。
今やってることって意味ある?」
みたいな。
#ちょっと違うけど
例えるなら、心の中身が穴から流れ出して、やがて空っぽになる状態。
パズルで言えば、すべてのピースがなくなってしまったような状態。
そしてまさに、生き甲斐がなくなってしまったかのような状態。
今となれば、それが、「心に穴があいている」状態、
あるいは「心に穴があいた」症状なのだと理解できます。
心の穴の埋め方

私の場合、一番悲しい時に心の穴を埋めてくれたのは音楽でした。
普段はそこまで音楽を聴く方ではありませんし、
熱烈に推しているミュージシャンもいません。
ただ、何も手につかないときに、心地よく時間を過ごす手段として
耳障りの良い音楽を聴くことで心の穴を塞ぎ(忘れ)、
中身の流出を多少なりとも食い止めることができた気がします。
1週間くらい、毎日4時間はただ音楽を聴いて過ごしていたと思います。
でも、音楽で心の穴が塞がったかというと、そんなことはなく、
一時しのぎにしかならなかった感覚です。
音楽には大変に救われたものの、結論を言うと、
「心の穴を埋めるのは時間しかない」んじゃないかな、と思います。
ある意味で、
心の穴って『目に見えないケガ』のようなものかもしれません。
心に傷を負い、心の中身が血のように滲み出していく状態を、
音楽のようなもので一時的にカサブタを作ってしのぎながら、
本質的には内側から肉が盛り上がるように、傷が癒えていくのを待つしかない。
なので、心に穴があいたときは、
最終的には「時間が治す」のだということを理解した上で、
心が元に戻っていくまでの時間稼ぎを、他のことでやっていく。
できれば、自分や誰かを傷つけない方法で。
そんなふうに思います。
#ヤケ酒はダメよ
#フテ寝はOK
心の穴の効用

自分の心の穴を自覚している間、なるべく周りに助けてもらうように心がけました。
家族には「今、パパ、意気消沈してて役に立てないから、しばらくゴメン」とお願い。
仕事も「申し訳ないんだけど、今は手をつけられないからお願いしてもいい?」とお願い。
これまでは、経営者、ビジネスパーソン、父として役割を担い、
その役割を果たすことで自己を成立させていたと思いますが、
そんなことを気にすることすらできない状態だったので、
最悪の状況だけは回避するように、周りに全身全霊で頼るようにしました。
そうしないと大変な迷惑をかけるだろう、と言うことだけはわかったようです。
で、頼った方がうまく回ったこともたくさんあった。
そういう意味では、自己開示するいいきっかけだったんだろうなと感じますし、
次に誰かの心に穴が空いた時に、私は喜んでサポートする側に回ってあげられるんじゃないかと思います。
最後に:生き甲斐に寄せて

最大の気づきは、自分の生き甲斐に父がいたということです。
言い換えれば、
自分の生き甲斐を構成する『プチ生き甲斐』の一つが
【親の存在】だったということです。
この30年、
親の世界と自分の世界は別の世界だと思っていましたし、
まさか自分の心に親がいるとは思っていませんでした。
でも、自分の心にぽっかりとあいた穴が父親の形だったのを感じることで、
「ああ、ここに父さんがいたんだな」と自覚したわけです。
自分の心のずっと奥の静かなところで、優しく支えてくれていた父の姿があった。
#多分ね
「生き甲斐を気にしない方が幸せに生きられる」
「働き甲斐を気にしない方が幸せに働ける」
というのが私の持論で、その考えは変わりませんが、
これまでの私は、
「気にしない」をと言う言葉を
「・・甲斐と言う概念を軽視する」
あるいは
「その存在を無視して見ないようにする」と言う意味で使ってきました。
しかし今回のことで、自分が意識していない当たり前のことにだって
自分の生き甲斐が支えられていることを痛いほど知ったので、
生きがいや働きがいを構成する要素をあえて気にはしないけれど、
あえて意識することのない、
毎日の当たり前に、ちゃんと感謝して生きるようにしたいと思います。
最後まで『この人には敵わないな』と思わせてくれる、本当にチャーミングな父でした。
父さん、ありがとう。お疲れさまでした。

ということで、今回は以上です。
今回も、最後までお読みいただきありがとうございます。



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